| 東京浪漫劇場 > インデックス > 館主執務室(館主の独白とプロフィール) | ||||
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ここでは、館主が気になったことなどを書きしるしています。 故郷を想う 今でこそ東京人のような顔をして歩いているが、私の故郷は埼玉県の大宮市である。今ではさいたま市などといっているが、大宮市である。生まれてから小学校高学年まで居たマンションが、近く建て替えになると云う。 「すっごい、嬉しい」と、幼馴染みは云った。彼女は今は結婚して都内に居るが、実家はまだそのマンションにある。「壁は薄いし、水回りとか、あれで結構ひどい状態なんだもん」 マンションと私とはほぼ同い年である。私は生まれてから十年ちょっとしか暮らしていないから、まだ比較的新しい頃の記憶しかない。マンションの裏手には芝生が広がり、決して高級なマンションではなかったが、子供向けの共用の屋外プールや公園などもあった。各戸のベランダの洗濯物が無数にはためく日曜の晴れた朝の光景が、どうした訳かのんびりと平和な記憶として目に焼きついている。 そんなことがあって、今の自宅から一時間足らずで行けるにもかかわらず、疎遠にしている故郷を久しぶりに歩いてみたいと思った。幼馴染みを誘い、最寄り駅からマンションまでの道をかつての町の記憶を手繰り寄せながら歩く。当時ハシゴして歩いた古本屋は3軒中2軒が健在、よく通った文房具屋は新しく建て変わり、同級生の誰々が住んでいたマンションはなくなった。近くの鮨屋の娘はお婿を貰って跡を継いだってね…。思い出の風景と変わってしまったところも多いけれど、町の雰囲気はあまり変わっていない。何処かのんびりとして、幼い頃の自分が容易に蘇る。文房具好きや、近くの知らない町を見にいく(当時は自転車だったが)趣味なんかは、考えてみればまるっきり当時のままだ。思い入れのあった店の何軒かが見つからずじまいだったのが残念だ。 幼い頃を暮らしたマンションは広大な葡萄畑に面して4棟が並び、私の家は一番手前の棟の5階にあった。我が家が越した後、駐車場の拡張に伴って葡萄畑は面積を縮小したが、そこにまだあるというだけで懐かしい。裏手に林立するのは、当時ですら古色蒼然としていた県営団地。最近建て替えが進み、今や私のいたマンションよりもはるかに高層で立派だ。 共用プールは何年も前に取り払われていた。公園の遊具もほとんどが取り外されて、敷地の端に赤錆びた鉄棒が一組、不安定な形でぼんやりと立っているだけだった。冬枯れの木々のもとでその姿は想像以上に荒涼として見え、駐輪場にあふれんばかりだった自転車やバイクも、心なしか疎らである。 私がここで暮らしていた頃、マンションには歳の近い友達が何人も居た。プールでは水を掛け合い、公園のブランコを力一杯漕いでいた。親たちもほぼ同世代だったのだろう。それが今では子供の影さえも見えない。この寂れよう、私たちも歳をとる筈である。 小学校までの道のりを、再び記憶を辿りながら歩く。約二十年の歳月に、一緒に通学していた幼馴染みとも微妙に記憶がずれる。通学路に、昼でも薄暗い鬱蒼とした砂利道があったねえ? あぁ、舗装されたのか、わかんなかった。本当にこの道だっけ…。なんていう具合に。 そのうちに川にさしかかった。昔、橋のたもとに、「このへんはこわいぞ」と書かれた、いかにも恐ろしい河童の看板があった。今思えばよくあるものなのだが、薄暗い雨の日なんかに通ると妙に目について、特に怖かった。「昔、ここにさぁ…」と云って見ると、なんと同じ看板が記憶通りの場所にそのままあるではないか。河童の絵は、今見てもやっぱり怖かった。 幼少の頃を過ごした町というのは、住んだ年月の長短にかかわらず特別なものであるらしい。我が家は何度も引っ越しをしたけれど、私の原風景は多分、この町なのだ。建ったばかりのマンションに越してきた当時の両親の年齢に追いついた今になって、特に強くそんなことを思うのである。 2008/09 巨星墜つ 家の玄関に、一葉の写真を置いていたのでした。何故と云って、それが私が一番好きな写真家の作品だったので。 もとより自分の住む町の周辺が好きなので、上野〜浅草界隈は写真に撮ることも多いのですが、この界隈をよく撮っていた先人として、常に私が並々ならぬ敬意をもって心に留めているのが、桑原甲子雄さん。 彼の作品に初めて触れたのは、都写真美術館で2001年に行われた「ライカと東京」展。その作品は、街角にあふれる看板や着物姿の婦人、繁華街の喧噪など、私が憧れてやまないかつての東京の生の姿が活写されていて、私はすっかり魅了されてしまったのでした。写真に写された憧憬の昔から、自分の居るこの現代までを連綿と生きて、町の変貌ぶりさえも記録し続けている、いわば生き証人。 そんな人がご存命なことが夢のようでした。 思えばライカ使いでこそないものの、私が標準レンズでのスナップショットをやりだしたのも、ほとんど氏の影響のようなものです。 昭和11年に氏が自宅の窓から撮ったという一枚があります。看板建築の建物に、「仕立物致します」の看板がひときわ目立ち、その下には着物姿の婦人がふたり。ひとりは日傘を傾けている。 この写真が撮られた界隈は、当時からすれば随分と変わってしまったのだろうけれど、今なお写真にあるような看板建築が少なからず現存し、その雰囲気を感じることができます。このあたりを歩いていると、既にこの界隈には居ない筈の氏が、ライカを手にひょっこり現れるような気さえしたものでした。 しかし、時は流れてひとつ、またひとつと往時の町の面影は消え、ついにはそれらを撮り続けた写真家も天寿を全うして召されました。昨年のことだそうです。享年94歳。 ひとつの時代が終わったという気がしてなりません。 「写真家の桑原甲子雄さん死去 戦前戦後の東京を記録」(asahi.com記事) 桑原さん、旧い建物の記録を遺そうとカメラを持った私は、貴方の作品からスナップ写真の愉しみを教えていただきました。その愉しみは、今や私にはなくてはならないものです。 したためきれないほどの感謝の気持ちとともに、ご冥福を、心よりお祈り申し上げます。 2008/02 まぼろしの町 そこは、忘れられたような町でした。 記憶の町は、坂の向こうに夕日が沈んで、何十年と変わらず流れ続けているかのような商店街のアナウンス、低層の建物が入り組んだ町並み。路地の奥の銭湯。いつの間にか顔を憶えてくれていたラーメンの店。旧い食堂の土間の色。新巻鮭がぶら下がる歳末の活気。 夕方になり、日が傾いてくるとどうしてか切なさばかりが増し、家に帰りたくなるのが常でした。 小さな商店街の入口は街道に面し、角には旧びた色の仕舞屋が二軒。その隣は年老いた犬の居る職人の仕事場。 顔の周りの毛のすっかり白くなった犬は、歩くのさえ大儀な様子でいつも桶の中に蹲っていました。ご主人である職人も、犬とともに歳を重ねたとみえる老人で、犬と似たゆったりとした空気感を漂わせながら、ある時は鋸で材木を切り、ある時はぼんやりおかみさんと往来を眺めていたりしました。昼に夜に何度となくそこを通るうちに、いつからか私は会話を交わしたことすらないこの老夫婦と犬の姿をなんとなく確かめるようになっていたのです。 時が経ち、私はその町から離れて暮らすようになり、日常に追われるままにそこを訪れる機会はほとんどなくなりました。しかし、不思議なことにその町で過ごした日々は時を重ねても私のなかではあまりに鮮やかで、幾度となく歩いた町のディディールまでもが懐かしく判然と、郷愁をもって思い起こされてくるのです。 私がそんな風に思いを馳せるばかりになって何年も経った最近、話題に上ることさえ意外な感のある忘れ里であるその町の話を、人づてに聞きました。 商店街の入口近くのとある一軒から火が出て何軒かを焼き、数人の方が亡くなられたというのです。話によると、焼失した建物のなかにはあの老犬の居る職人の家も含まれていたそうです。 目に浮かぶのは街道に面した角の痛々しいほどに旧びた仕舞屋の壁の色。老犬の覚束ない足取り。往来を眺める老夫婦。大好きな町の、なんでもない見慣れた光景。 そこはもう、現実の町ながら私にとってはまぼろしの町なのかもしれません。 2007/11 H町のこと 東京では、旧くなってしまった建物や町が新たな姿に生まれ変わって脚光を浴びると云う現象が相次いでいるが、私はこんな性分なので、旧い姿のままで生き続けている場所や町が好きだ。 先日、東京のいわば「昔町」のひとつであるH町を久しぶりに訪れた。私の住む町からは少し距離があるが、何年も前に偶然そこを訪れて以来、勝手を承知で云うなら私の中ではどうしても消えて欲しくない、愛すべき昔町である。 H町のすぐそばには若者が闊歩する繁華街や高層ビルが迫っている。しかしひとたび裏に回れば、一段低くなったところに銭湯の煙突が殊更目立つ低層の昔町が広がる。 高台の繁華街に近いあたりにも、少し前までは旧いアパートや木造建築が密集していた。それが近年相次いで再開発され、現在も町を丸ごと作り替えてしまう大きな工事が進んでいる。何年か前に再開発の話を聞いたときにも町を見に出掛けたが、すでに家々はほとんどが空家となり朽ちるにまかせ、店舗という店舗には移転の貼り紙が貼られ、すっかり町は生気をなくしていた。 その日は朝から晴れて、眩しいほどの日が射していた。私は久しぶりにカメラを提げてH町へと向かったが、近づくにつれてだんだんと天気が怪しくなりはじめ、高台から町を見下ろす場所にさしかかったところで本格的な夕立となった。 私は近くの建物の庇で雨宿りをしながら、しばらく雨に濡れるH町の屋根並みを眺めていた。地形というのは不思議なものだと思う。もとの地形がこうだったのか、故意に作られたものなのか。この地形故にこの町並みなのか。いずれにしても、この高台と低地とは現在でこそ同じ地名を使っているが、かつては別々の名前をもっていたようである。 雲が切れて、晴れ間が覗いてきたのを潮に再び歩き出した。H町は戦災を免れたようで、現在も木造の小さな家々が曲がりくねった狭い路地にひしめき合っている。町の所々には防災の為なのだろう、ごく小さな公園が設けられている。 歩いているとやがて色とりどりのプラスチックの花飾りが下がる商店街に突き当たる。ここが町の中心部なのだろう。都内のアーケード街にありがちなチェーン店の姿は見あたらず、ほとんどが一時代前の風景を見ているかのような個人商店だ。これほどまでに時代がかった商店街も東京では珍しい。店の人がマジックで書いた値札がたくさん貼られた店でパンを買った。先客にお遣いにきた近所の小学生がいた。懐かしい品揃えだった。 シャッターを切りたくなる風景はそこらじゅうにあった。すぐそこの高台の町がそうだったように、この町もいつか一掃されて、高層ビルの建ち並ぶ町に作り替えられてしまうのかも知れない。今ならまだ町は生きている。井戸端会議をするお年寄り。路地に聞こえるラジオの音。時節に合わせて誰かが挙げる鯉幟。手入れされ、美しく咲いた路地の花。いつ失われてしまうかもわからないその情景を、今のうちに存分に記録に、記憶に残しておきたいと思う。しかし、同時にこんな気持ちは外部の人間の勝手な思いであることもわかっている。だからいきおいカメラを構える手も鈍りがちになる。下手な写真の言い訳ではないが、こればかりは相手が建物であれ町並みであれ、常に自分の中で葛藤があって晴れることがない。これからもずっとそうだろう。 夕暮れ近くなり、私は久々のH町をあとにした。もときた高台へ上がろうと坂の近くの公園を通ると、夕立に打たれた散り残りの八重桜が、大きな花をいくつも落としていた。 2007/05/02 陋巷の建物画家・大倉ひとみさんの待望のweb。 以前からブログに相互リンクを張らせていただいていた、建物画家・大倉ひとみさんの公式サイトが、今年の元旦に目出度くオープンされました。 http://neontica.web.fc2.com/ 大倉さんとの出会いは昨年の初夏、彼女の個展が根津のCafe NOMADで催されたときでした。私の個展もすでに同じNOMADで夏にやることが決まっており、NOMADのオーナーさんから旧い建物つながりということでDMが届いたのでした。その前後に、大倉さんご本人からもメールをいただき(私がNOMADで個展をやることはご存じなく、東京浪漫劇場を見てくださっていたそうです)、会期中に会場でお会いすることになったのです。 実際にお会いしてみると初対面とは思えないほどに話が弾んで、すぐに意気投合。好きな建物の傾向はもとより、旧い建物に対する気持ちのありようや思い入れといったようなものが非常に似通っていて、お互いの家が近所ということもあり、以来何かにつけて仲良くしていただいています。私の個展の際にもずいぶんとお世話になりました。 大倉さんの作品は、その建物がどこの何であるか、ということがあまり気にならないほど独創的な世界観をもっています。「自分が好きなあの建物だからよい」のではなく、大倉さんの目を通して表現されたそのものがよいのです。それは知識に左右されない本物のよさです。 そんな大倉さんの作品のひとつが先日うちにお嫁にやってきました。これまでの人生で私が初めて購入した画です。大倉さんのweb立ち上げのお手伝いをさせていただいたときに偶然見て一目惚れし、ご実家に保管されているというのを無理云ってもってきていただきました。どこか憧憬の浅草十二階を思わせる一枚です。 大倉さんの作品はサイトでも見られますが、原画を見ることができる展示が文京区の文京ふるさと歴史館で3月18日(日)まで開かれています。メインは近代建築に関する展示ですが、そのなかに前々回の独白でも書いている根津の主・曙ハウスもあり、在りし日の看板プレートとともに彼女の画も出品されているそうです。私自身もまだ見ていないのですが、近いうちに出かけてみるつもりです。お近くの方、ご興味がおありの方は是非足を運ばれてください。 2007/02/12 今夏、個展決まる。 東京浪漫劇場を起ち上げて5年目、かねてより、ネット以外での発表の場が持てたらいいなと思い続けてきました。 東京の町からどんどん消えてゆく旧い建築物の姿や意匠を、そして確かにそれがその場所に存在したことを、記録に、記憶に留めておきたい。それが、私が写真を始めた最初のきっかけでした。 写真を撮り続けるうちに、自分の中ではさまざまな変化がありました。被写体も建物一辺倒から小さな風景やイメージ、またスナップショットなどへと広がり、町の中になにげなくある旧いものは勿論、面白いものや不思議なもの、綺麗なものなど、さまざまなものを見つけては写真に撮るという行為が、何より楽しくなってきたのです。 家にあったペンタックスのコンパクトカメラから始まったカメラも、続けるうちに色々なデザインや形、フィルムサイズなどが楽しくなってきて、ついには旧い物好きのこと、当然の帰着のように、自分よりも年上のマニュアルカメラが今の私の中での第一線です。 写真の勉強や腕前、行動力、情報収集力などなど、今の私に足りないものはまだまだたくさんありますが、ちょうど忙しい仕事からもしばし開放される機会を得ましたので、ここでひとつ、まじめにリアルな場での作品発表に取り組んでみることにしました。 写真展を見るのが好きで、好きな写真家さんの写真を見るのはもっと好きで、優れた展示を見るたびに、こんな写真が撮れたらいいな、こんな展示ができたらいいな、と思ってきました。また、このサイトを見てくれた方々の温かい励ましの言葉も、私の背中を押してくれました。ありがとうございます。 今回、展示が決まったのは近所のギャラリーカフェ。以前から時々行っていたところで、私の作品を飾るにはちょっとオシャレ過ぎるくらいの場所ですが、カフェなので東京浪漫劇場を知らない方にも見ていただけるだろうし、なにより地元なので、ここで展示ができたらいいなと前々から思っていました。 作品の審査もどうにか通過して、今夏、漸く小さな個展の開催が決まりました。 夏に向けて色々と準備もありますが、何しろ愉しく進めていきたいですね。 詳細は近日中に、専用ページを公開いたします。 どんな展示ができあがるか、当の私もまだまだ手探りですが、ひとりでも多くの方に見ていただけるよう、精一杯頑張りたいと思います。 2006/04/17 曙ハウス、ついに逝く。 旧い建物が好きな人々の間では、おそらく根津のシンボルと云っても過言ではなかった「曙ハウス」が、ついに消滅しました。個人的には、最近、上野駅前のじゅらくビルの無惨に壊れた姿を見たばかりだったので、泣きっ面に蜂のような心境です。 都内に住もうと思いたち、物件を探していたときのこと。一番住みたかった町に条件の合う物件が見つからず、途方に暮れていたときに辿り着いたのが、根津の町でした。不忍通りから少し入った路地をとぼとぼと歩いて、曙ハウスの古びた姿を見たとき、あぁ、この町に住んだら、いつでも曙ハウスが見られるなと思いました。狭い路地に建ち並ぶ家々、空との間に乱立するどこか物悲しい電柱、そんな風景の中に、不思議と変わることなく在った曙ハウス。 私は、そうして根津にほど近い今の家に住むことになりました。 住みはじめてからも、仕事の帰りに、買い物や銭湯のついでに、曙ハウスの前を何度行き来したことでしょう。その間、根津の町でもあちこちで旧い建物が建て替わっていきました。曙ハウスは以前から、傍目にもかなり傷んでいるのは明らかでしたが、それでも変わらず傾いた看板を掲げ、いつもの路地に鎮座していたのです。 訃報は突然、人づてにもたらされました。半信半疑で行ってみたときには、黒々とした建物は跡形もなく、きれいに整えられた更地は不自然なくらいに広く見えました。本当に、私は何を見ていたのでしょう。こんなに近くに住んでいるのに、まったく気づくことができませんでした。せめて、解体の事実を自らの足で行って知ることができたらと思うと、自分の無精さがひどく悔やまれるのです。 2006/03/11 遅れ馳せながら、謹賀新年 あけましておめでとうございます。 昨年は私にとっては公私ともに非常にめまぐるしくも長い1年でした。 後半は半年もの間、更新もせず掲示板の書き込みの返事も遅く、ずいぶんとまた不義理を重ねてしまいました。仕事が詰まって時間がとれなかったというのもありますが、時間があっても別のことに気を取られたりして、劇場の管理をきちんとできないまま年が明けてしまいました。 昨年もこんなぼんやりなサイトにも拘わらず、多くの方に見ていただいて、色々とコメントを寄せて下さる方もあって、嬉しい一年でした。「AII About」の東京の「おすすめサイト2005」に出していただいたり、いくつか紙媒体にも載せていただいたりして、ここ数年自分がやってきたささやかなことが、少し世の中の人に認めてもらえたのかなと思ったりしました。 昨年の12月、サイト開設から丸5年になろうと云うときに、思いがけず「Yahoo!」から登録の連絡がありました。開設時から何度か申請しては居たのですが動きがないので、建築だの銭湯だの古道具だのと内容がごちゃごちゃして居るからだろうと思い、更新も滞っていることもあって、諦めてまったく申請もしていなかったので驚きました。いろいろですが、たくさんの人の目に触れる機会を戴けることは素直に嬉しいことですね。ありがとうございます。励みになります。 思うに今年も屹度ぼんやりでしょうが、できる範囲で色々と発信していけたらいいなと思います。 本年も東京浪漫劇場をどうぞ宜しくお願いいたします。 2006/01/16 別れの季節に 近所の話です。 近くに、気に入った猫が居まして、飼い猫なのですが、ちょっと居ないような美人猫で、くりんとした眼に比較的大きな体、ムササビのように柔らかいお腹をした、それは可愛い猫です。 彼は小さくて旧びた、自分の家の庇の上が気に入りで、時折通りかかると庇の上からちょっとこちらを見て、重そうな体で塀の上を伝い、三段階くらいかけて地面にわざわざ降りてくるのです。けれどもそうといって何をするわけでもなく、足許にじゃれついたりしながら、たまに遠くを見て、ひとりになってみたり、ムササビのようなお腹をいっぱいに伸ばして寝転んでみたり、勝手にやっているのです。 彼の家の隣は、木造の旧い一軒家でした。自分の家の塀の上に立ち、伸び上がると、ちょうど爪研ぎに丁度良い距離に隣家の木造の外壁がくる恰好になり、気が向くときにはがりがりと隣家の外壁で爪を研いでいました。隣の人にしてみれば迷惑な話ですが、端から見ている者の眼には、なかなか可愛らしく映ったものです。 ある日、彼の愛用の爪研ぎが突然なくなってしまいました。猫の爪研ぎにされながらも風情ある焦げ茶色の板張りが素敵だった隣家が、すっかり解体されてしまったのです。猫の伝い歩いていた塀も取り払われ、気がつけば端正なぴかぴかの家が行儀よく建ったところでした。 私の気のせいか、愛用の爪研ぎを失ってからというもの、彼の姿を見る機会は極端に減りました。何度となく家の前を通り過ぎるも、小さな旧い家の庇の上には、彼の姿はないのです。隣家の外構の整備は進み、広い庭も整いつつありました。隣の彼の家は小さく旧く、どこか申し訳なさそうに見えました。隣家が焦げ茶の板張りの家だった頃は、どちらがどうということもなく共生した、町の風景のありふれたひとこまでした。 先日、私は少しだけ久しぶりに、彼の家の前を通って家路につきました。その日は朝からずっと雨が降り続いていたので、外猫の彼でも外に出ている筈はありません。隣家の外構工事は着々と、完成に近づいています。ふと隣の彼の家を見ると、どこか様子がおかしいのです。こざっぱりとして、やけに殺風景です。申し訳なさそうに建っていた彼の小さな旧い家は、やはり申し訳なかったというように、いつの間にか誰も居ない空家になっていました。 ただの引越しか、建て替てしまうのか、私にはわかりません。ただ何となく思うのは、狭い庇から大きな体をよいしょとおろしてすり寄り、ムササビのようなお腹を伸ばして寝転ぶ彼にはもう会えないのだなということだけです。たとえ、隣家の端正な家のようにあの小さな家が建て替わり、彼が家族と共に新居に戻ってきたとしても。 冷たい霧雨が散りかけの桜を濡らす晩の、ほんの些細な出来事でした。 2005/04/22 根岸の里のランドマーク、消滅。 新しい年が始まりました。東京浪漫劇場も気がつけば4年目に突入です。早いもので…。。 4年目の今年は、昨年投入した折り畳み自転車を駆使して、都内をぐるぐると往きたいと思います。 さて、新年早々嫌なタイトルですみません。 久しぶりに平日の休みが取れた今日、本当に久しぶりに、根岸にいってきました。 今では何年前だったかも思い出せませんが、私はとある文学作品の舞台を見るべく根岸の町に降り立ちました。まだ「文学散歩」などという言葉も知らない頃で、今にして思えばこれが東京の町を歩き始めたきっかけであったように思えます。その意味で、根岸は私にとっては散歩の原点と云える土地。「モダン建築逍遙」で公開している鶯荘アパートも当時は健在でしたが、それが貴重な建物だと気づくのはもう少し後のことです。 それから何度となく、根岸の町を訪れていますが、訪れるたびに変わらない姿で佇む、根岸のランドマークともいうべき建物がありました。下町・根岸のシンボルとしてたびたびメディアにも取り上げられたこの景観は、かつて鶯荘アパートがあったうぐいす通りを言問通りを背にして歩き、三叉路にあたったところを右に折れると見える巨大な銅板葺きの看板建築。煙草や日用品などを商う店舗でした。 各地で多くの旧い建物が姿を消す中、この看板建築はいつも堂々とそこにありました。通るたびに、近所の老犬の元気な姿を見遣るように、そこに在ることを確認して安心していました。あまりにも堂々とした構えなので、これは壊すにも勇気が要るだろうから当分は大丈夫だろう…、そんな思いすらありました。 しかし、今日行った時に見たのは、堂々とした看板建築の巨大な姿を覆う、緑の作業シートでした。 ああ、遂になくなってしまうのか…、私は、自転車を使えばすぐの所に住んでいながら、このあたりを歩くのは随分と久しぶりでした。このほかにも根岸で存在が危ぶまれると思っていた物件のいくつかは今も健在でしたが、「病院建築探訪」に取り上げた下谷病院は、随分以前に移転に伴い、消滅していたようです。 ここ最近は、諸般の事情で町を歩く機会が以前よりも激減しているため、これではいけないと、壊れ往く馴染みの看板建築に戒められたような思いがしました。 今年はもっと、何事も積極的に頑張ります。自戒を込めて、新年の抱負と致しましょうか。 2005/01/12 またひとつ、憩いの空間が消えた。 先日、「Yahoo!」のトピックスで、初めてABCこと青山ブックセンターの閉店を知りました。 仕事場が新宿に近く、結構頻繁に利用していた書店だっただけに、私には大きなショックでした。 デザインや芸術関係の本を得意としているせいで、確かに普通の書店なら当然置いている筈の本がないこともしばしばでしたが、それはそれでABCだから、と納得できた書店でした。閉店を知った日の2、3日前には普通に本を探しに訪れていたのです。その時も探していた本がなく、店員に尋ねたところ、「在庫がないのでお取り寄せになります」とすら云われました。結局、取り寄せて貰うことはしなかったのですが、なんて突然なんだろうと驚きを隠せません。 新宿のABCの、朝8:30〜夜11:00という営業時間は、私にとってはとても頼りになるものでした。仕事が忙しくても朝早く家を出れば、書店で少しの時間、好きな本を眺めていることができたのです。早朝の店内はがらんとして、忙しい毎日にあっても心休まる時間でした。 書店といえば最近、発刊されてから何年と経たない本ですら、すぐに店頭から姿を消してしまうのだな、と改めて感じています。結構大きな書店だと思って安心して行ってみると、当てが外れることも少なくありません。勿論、店の面積には限りがあるし、ただでさえ新刊が物凄い勢いで出版される昨今ですから、こればかりは物理的にも仕方がないことなのかも知れませんが、消費者側としては非常に残念なことです。本が店頭にない場合は取り寄せということになるわけですが、取り寄せには時間がかかるため、せっかちな私などはやはり他の大書店に行ってしまうほうです。 私の中で、この書店になかったらあとは諦めて取り寄せるか古本屋を当たるしかなかろうと思う大書店は池袋のジュンク堂書店。一度、他の書店では見たことのないとある幻想文学の本を見つけて以来、ここの品揃えには一目置くようになりました。店舗の面積が広いのは勿論ですが、座って本が選べたり、図書館を思わせる重厚感のある書架も気に入っています。店員の知識も他の書店に比べてちゃんとしているような気がします。惜しむらくはブックカバーと袋のデザインがあまり好みでないことくらいでしょうか…。 それにしても、ABCの閉店は残念でなりません。あぁ、なんで閉めちゃったのかなぁ。 2004/07/20 風薫る季節に思ふ。 仕事の帰り道、路地の奥に、長い布のようなものがはためくのが見えました。洗濯物にしては長い、しかもこんな夜中に? と思って近づいてみると、路地の狭さに似合わず掲げられた、大きな鯉のぼりの尻尾でした。都心の路地に、大きな鯉のぼり泳いでいるのが何となく嬉しくて、少しの間眺めていました。 ここ数年、季節の移り変わりに昔よりも関心が向くようになりました。道端の花や草木、四季の風物詩などを意識するようになったのも、考えてみれば最近のことです。そういった自然のものや、昔ながらの慣習などの良さというものに気づくようになるには、ある程度の年齢が必要なのかも知れないと思う今日この頃。 先日、ずっと愉しみにしていた都現代美術館での「YES オノ・ヨーコ」展に行ってきました。なんというか、私にとっては良い意味で時代の空気を感じることができた展示でした。最近は60年代、とりわけこの時代の芸術の周辺が非常に自分の中で気になっているだけに、余計に興味をそそられるのでしょう。難解な表現も多くありましたが、見終わった後には何となく柔らかで甘酸っぱい印象の残る、いい内容でした。なんといっても彼女の波瀾万丈な生き方が凄い。自分の思い描くスタイルとは違えど、同じ女性として格好いいと率直に思えるのです。ついでのつもりで見た常設展でも、見てみたいと思っていた現代美術の巨匠の作品のいくつかも見ることができて、なかなか嬉しい一日でした。 2004/05/01 愛すべき営団地下鉄。 4月に入りましたね。 学生や新社会人ではない私には、4月だからどうという事もないのですが、今年はひとつだけ気にしていることがありました。それはコンテンツでも出した「帝都高速度交通営団」の解散、です。 その名前を知ったのはいつだったか、それまでは私の中での鉄道といえばほとんどJRのみだったのが、その響きによってじわじわと営団の評価が上がっていったのを記憶しています。堅苦しくて大袈裟でいい名前。そんな感想を持ったものでした。 名前が変わることを知ったときにはショックでしたが、3月の半ばには、街中からあの看板が消えてしまうのなら、何らかの形でその記録しておきたいと思うようになりました。 中でも、私の中での地下鉄の駅として印象深いのがお茶の水橋から見える丸ノ内線お茶の水駅の入口の看板でした。神田川の土手から伸びるような恰好で口を開けている駅の、背にあたる部分に一文字ずつついていた筈でしたが、私が出掛けたときには既に看板は撤去された後でした。何とも心残りです。 ある日を境に、街中に溢れていたあるマークが一斉に別のものに変わってしまうというのは、なかなか不思議な現象だと思います。4月に入って、「S」みたいなマークが「M」みたいなマークに一斉に変わりました。 私は殊更あのマークを気に入っていた訳ではないけれど、見慣れたものがなくなってしまうのは淋しく、思っていたよりも地下鉄に愛着があったんだな、と改めて感じました。 前のマークの上に新しいマークのシールが貼られているのを見ると、無理に変えることもないのに、なんて思ってしまいます。 営団地下鉄最期の思い出にと、撮り歩いたまではよかったのですが、寫眞の出来は結構酷いものでした(お陰で次への励みになりましたが…)。枚数が少なかったので、いまひとつなものも「営団地下鉄最期の日。」に入れてしまいましたが、まあ流し見て戴ければと思います。 「営団地下鉄」にかわる地下鉄の名称は「東京メトロ」。何と軽薄な、しかも日本の地下鉄に堂々とフランス語。そのセンスは個人的にはあまり好みませんが、発売されたばかりの『東京人』で、まんまと記事広告風の紙面を読んで、駅に置かれている路線図が5種類もあることを知りました。 早速意識して手に取ってみると、成程、東京の地下鉄をわかりやすくしようという意気込みが伝わってくるようです。実に案内が懇切丁寧で、各線の停車駅についても、始発駅からの時間や乗り換えの駅表示は勿論、乗車推奨位置や乗り換えの便利さ(乗り換える時間によってマークを変えて表示している)まで細かい文字で書かれているのには恐れ入りました。気持ちはよくわかります。 でも、やはり目に付くところの多くが新しく、綺麗になっているのを見ると、未だに一抹の淋しさと違和感を感じないではいられません。 2004/04/09 新装開店に際して ようこそ、新生東京浪漫劇場へ。 まずは、長い間更新のなかった劇場に訪れ続けてくださった皆様に感謝いたします。 2001年末に開館した東京浪漫劇場ですが、一年を過ぎたあたりからどうも館主の内面的な調子がふるわず、どうにか気分を変えて組み立て直したいと考えるようになりました。 というのも、東京浪漫劇場を立ち上げる以前は、寫眞を撮るにしても、自身のライフワークのこと故に、感覚的に行っていたものが、気がつけば東京浪漫劇場という表現の必要が先に立ち、それを意識的に行うようになっていたのです。勿論、東京浪漫劇場は私が好きで立ち上げたものであり、当初は自身のライフワークの副産物でしかありませんでした。 それがいつしか自分自身へのプレッシャーとなり、感覚的になろうとする程、意識的になっていきました。 それは寫眞だけでなくサイトの構成やデザインにまで及び、仕事が多忙になるなどの時間的制約も手伝って、作業が進まない日が続きました。 その間、さまざまなイベントや情報の告知を掲示板で済ませてしまい、情報を下さった方や、訪れてくださった方々にはご迷惑、ご不便をおかけしてしまいました。 今後はなるべく気負うことなく、力を抜いてゆっくりと更新していく所存です。 このたびのリニューアルでは、これまでの内容は生かしつつ、見直して手を加え、少しですが新たなコンテンツを増やしたりもしました。今後ともお楽しみいただければ幸いです。 リニューアル作業中には、色々なことを考えました。 東京浪漫劇場で扱う旧い建築、銭湯、生活雑貨、町並...これら東京の浪漫は、私にとってはずっと憧憬でした。しかし、これらの実体にふれるうち、無責任に「浪漫」などと持ち上げてはいられない場面に多く遭遇しました。 失われていくものたちの、儚さや美しさだけではない生の姿。当たり前のようにそこにある、のっぴきならない生活感。 それらはいわば当然のことで、自分でもわかっているつもりでしたが、今にして思えば私には、どこか遠いものだったのかもしれません。 その頃、私はまだ家族とともに暮らしていました。同年代の友人なども多くは実家暮らしで、通勤に支障があるわけでもなく、私にはまだ家を出て独りで暮らす理由がありませんでした。人並みの実家を出たいという漠然とした思いはあっても、実行に移すきっかけがなかったのです。 あるとき、一冊の本を読みました。作者名だけ見て手にしたその本は、かねてから愛読していた赤瀬川原平氏の新刊『ぼくの昔の東京生活』。 その内容に、目から鱗が落ちる思いがしました。まだ読み終わらないうちに、家を出る決心は固まっていました。私は東京浪漫劇場を東京の外側で作っていたことを忘れていたのです。 好きな街の年月の染み込んだアパートで、不便で豊かな力の抜けた生活をしよう。潤沢なお金を持たずとも、心豊かな暮らしをするのなら今しかない。 散歩の途中に見ている旧い街や家で、実際に生活をする。その心構えなくして、こうしたことをライフワークにすることはできないと思いました。私はそこに、リアリティを加えたかったのです。なんと体当たりで馬鹿正直な発想。でも私にはこれまでになく大がかりで楽しい計画でした。 そうして、遅れ馳せながら2003年の夏から、新しい生活を始めました。たったこれだけのことで、何かが大きく変わるとは思いませんが、これまでよりも少し、そんな心意気を表現に加味できたらと思っています。 2004/03/28 |
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